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文章とはー国語の入試問題
昔から国語の入試問題がすごく苦手で、特に小説の一部分のみを読ませ、「この時の「ボク」の心情を次の中から選びなさい」などと聞かれたときには、「なんでお前にわかんねん。お前、著者とちゃうやろ」という反感がどうしても抜けず、「間違える」ことが多々あった。

高校の国語の先生には、「女の子の方が国語が相対的に得意なことが多いのは素直に文章を読めるからで、あなたのようにケチをつけようと突っ張って読んでたらわかるものもわからないわよ。」、とよく言われた。それでも、答えが一つである、ということに対しておぼえる反感を消しきれなくて、素直に入り込める文章かそうでないかによって試験結果が大きく変動するという危うい状態のまま(実際、試験本番で痛い失敗をするのだが・・・)、大学入試を乗り切った。

統一的な理解の仕方を求める方式には今でも大反対であり、「そういう読み方もあるね。面白いね。」と言うことの大切さを僕は尊重したいのだが、それはさておき、入試問題のもととなった著者が入試問題を解いてみたらどうなるか、沢木耕太郎がエッセイを書いているので、ご紹介したい。

勉強はそれからだー象が空をⅢというエッセイ集の中で、沢木耕太郎が自らの文章がW大の入試問題に使われた場面について「ごめんなさい」というエッセイを書いている。
まるで答がわからない。《右の文中の傍線Bで、筆者はどのようなことを言おうとするのか》と訊かれても選択肢にある五つの文章のどれもが違うような気がする。《右の文中の傍線Dは具体的にはどのようなことか。筆者のあげた例に即して、五十字以内で、記述解答用紙欄に書け。》と命じられても、とても五十字ではまとめられない。とにかく、問のすべてにわたって、自信をもって答えることのできるものがまるでないのだ。
これを受けて単なる入試批判に終わらないのがこの人の優れたところで、彼は何人かの友人に入試問題を解いてもらって、著者以外の全員が同じ答を選択することに気がつく。
著者ができないからといってその問題に欠陥があるということにならないことを知った。著者ができないのは、恐らく、自分の文章に対する過剰な自意識とそれと同じくらいの無意識とがあるからなのだろう。自分が自分の文章をもっともよく理解しているというのは単なる錯覚に過ぎないのかもしれない。少なくとも、私が問に答えられない箇所の多くは、文章の流れに従ってほとんど無意識に書いている部分だった。
それぞれ色んな文章の書き方があると思うが、私は思いついたことをどんどん書いていって書きながら構想をねりあげるタイプである。読み直せば読み直すほど、自分の頭の中が整理されていって、何でこんなこと書いたのだろうと思うことも少なくない。一応完成した文章であっても、その日の気分によって自分の文章の解釈が異なってきたりもするので、なんとなく沢木耕太郎の言わんとすることがわかるような気がした。文章とは客観的でありえないし、自らの中でも統一的な意味を有しないものなのだろう。
by neon98 | 2005-12-30 01:16 | よしなしごと
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