会社法の世界では企業は株主のものであると習います。アメリカのロースクールでもShareholder Primacy Norm(株主中心主義)について議論をします。日本のCorporate Governanceを考えるといっても軸足がぶれてはなりませんので、株主の利益最大化が会社を取り巻く関係者の利害調整の原則になることを確認しておいてから話を進めたいと思います。株主中心主義といっても、これは株価を上昇させることと同義ではありません。また、取引先・債権者・従業員等の関係者の利益を否定するものでもありません。長期的に企業の利益あるいはキャッシュフローを高め、株主の利益を最大化することが企業の存在意義であるという原則論は日本でも広く受け入れられています。少なくとも法律学のレベルでは、株主中心主義という概念は日米ともに「通説」であるといえると思います。
ただ、米国で法律学者の書く論文を読んでいくと、法と経済学の概念が浸透しているせいか、会社法の条文構造に着目するというよりも、社会経済の実態を比較して「法」なるものを考えます。商法という会社に関する法規のレベルではとっくの昔から株主の利益最大化と概念が発達しているのですが、高度経済成長期の日本では政府やメインバンクの介入があったり、株式持合いにより資本市場が機能しなかったと批判され、米国から見た場合に「日本は資本主義社会ではない」などと言われる原因であったりもするわけです(個人的には悪い点ばかりではないと思いますが)。
「土地神話」「バブル崩壊」により状況が一変したことは皆さんご承知のとおりで、私が高校生くらいの時に崩壊したバブル経済から(一時回復するかと思われつつ)現実に回復したといえるのは昨年後半くらいではないでしょうか。外為法が改正され、会社法は柔軟な組織再編を認め、外国資本を受け入れながら日本経済はようやく回復の途につきつつあります。外国人株主の増加により企業を取り巻くカルチャーなるものも変化し、総会屋対策を中心とした株主総会指導も近年は見られなくなりました。従来よりも企業が株主の利益なるものを考慮するようになったといえ、コーポレートガバナンスを巡る実務が変化してきたということが一般論としていえるだろうと思います。
取引先の利益を確保する、従業員の福利厚生を考える、債権者を大切にする、これらの現実的行為のほとんどは株主中心主義と両立しうるものです。松下があれだけの広告費をかけ、生命に危険のある製品を回収にあたった事実も株主利益の最大化という原理の中で説明が可能だと思います。この概念を否定してコーポレートガバナンスは成立しえないものですから、基本原理であることをまず確認しておきました。
とはいえ、限界事例は存在するもので、例えば既に事業の清算を決めているA社が過去に製造し、ブレーキに異常のある自動車を回収するかどうかの判断や、従業員の多くが反対する企業再編など、ケースバイケースで本当に株主のみの利益を重視した判断がいいのか、議論になりうる余地があるのも事実だということも指摘しておきます。株主利益を守る仕組みが狭義のコーポレートガバナンスだとすれば、消費者保護、労働者保護、債権者保護、刑法など別個の規制があるわけで株主利益を犠牲にしても守らなければならないものがあることも事実です。企業倫理を限界事例でどう位置づけるかは永遠の課題ですね。倫理を守るか、倒産するかというのは答えのあるような問題じゃないような気がします。なんか教科書みたいで面白くないので、次回は少し横道にずれながらいこうと思います。