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上限利息規制は必要?
しばらく日常生活をほのぼのと書いてきて、ニューヨークの観光情報、レストラン情報やファッション情報を中心とするセレブなブログへの転向を目指していたんです(←大いなる勘違い)が、たまには真面目に考えてみるのも悪くなかろうということで、利息制限法を巡る規律について考えてみることにします。仮説という以前の「思いつき」レベルなので、百倍の反論がかえってくる可能性の方が高いですが、まあそれも楽しみだったりします^^。

昨日47thさんの「なぜ過剰取立は起きるのか?(イントロ)」というエントリに以下のようなコメントを残しました。
「返済原資の中心をなすのは、債務者個人が将来にわたって稼ぎ出すキャッシュフロー」という前提に疑問があるような気がします。キャッシュフローから返済原資をうみだすことができる層はほんのわずかであって、返済原資の多くは専ら借り換えによるのではないでしょうか。債務者の返済のインセンティブとなるのは職場や家族への連絡をされたくないという名誉欲であり、そのインセンティブを維持するためにはもともとあてにならないキャッシュフローを害してでも、現実に連絡をする事例を積み上げていくことは脅し効果として必要なのではないかという仮説も成り立ちうるでしょう。職業柄多くの債務整理事例にあたってきましたが、取立ての手口というのは概ね借り換えのすすめです(やり方はかなりやばそうなものまで色々ありますが)。
職業柄多くの債務整理事例にあたってきたというだけで、私の意見は消費者ローンの顧客層に関して強いバイアスがかかっている可能性は大きいので、その点は割り引かないといけませんが。
ちなみに私自身は債務者に早くあきらめさせるために一定の上限金利(固定か、どの程度の利率かはともかくとして)を法で強制すること自体は合理的と考えています。
ご丁寧に47thさんから以下のようなお返事を頂きまして、頭の体操代わりに考えてみようかなと思った次第ですが、長くなりそうなので自分のBlogに書いてTBさせてもらうことにしました。
返済原資として借換を期待しているということなんですが、「最後の貸し手」が供与する信用は、「最後の貸し手」が期待している返済原資が形を変えたものに過ぎません。「最後の貸し手」は、借り換えに期待できないはずですよね?その「最後の貸し手」が期待しているものが将来キャッシュフローであれば、その前の貸し手が期待しているものの本質も将来キャッシュフローでしかないんじゃないでしょうか?
あと、借り換えの問題は、借り手のリスクに応じた自己選別の過程と考えることも可能なはずで、少なくとも効率性の観点からは、その是非は簡単には決められないように思われます。そうしたことも考え合わせると、上限金利が規制される結果、本来は返済能力を持っている層に対する与信がなされなくなる可能性は現実的に大きいと思うのですが、その辺りについてはどう考えられているのかもうかがえると幸いです^^
「この辺りについてどう考えられているのか」と言われると正直に何も考えていない(^^)と申し上げざるを得ないんで、困っちゃうんですがこれまた思いつきレベルでエントリしときます。



誤解のないようにまず私の「思いつき」をまとめておきますと、(1)「返済原資の中心をなすのは、債務者個人が将来にわたって稼ぎ出すキャッシュフロー」という命題に異論があり、むしろ返済原資の中心をなすのは借換であるのではないか、(2)債務者に早くあきらめさせるために一定の上限金利(固定か、どの程度の利率かはともかくとして)を法で強制すること自体は合理的であるという2点で、それ以上でそれ以下でもありません。また、特定の貸金業者の方を批判するつもりはありませんので、その点はよろしくお願いします。

1.年利29.2%での消費者金融の顧客層

ご想像のとおり、私の思いつきは消費者金融会社の顧客層の中に「ご利用」を「計画的に」される方がどれだけおられるのかという根本的な疑問からスタートしています。債務整理事例では「ご利用」を「計画的に」されなかった方々としかお会いしませんので私の思いつきはスタート時点で強いバイアスがかかっていることは指摘しておきます。また、あくまでも私の思いつきにすぎませんので、この思いつきは統計的数値などの客観的データに支えられたものではありません。

ここでは、仮に出資法の29.2%という上限金利で貸し出すケースを想定します(そういえば2000年まではこの上限は40.004%なんていう数値でしたね。)。この金利で「ご利用は計画的に」という場合、実際どういう場合が「計画的な利用」といえるのでしょう?

かつては銀行による個人に対する無担保融資というマーケットが欠如しており、個人に対する無担保融資といえば消費者金融会社からの高利融資だったようですが、現在は銀行系列会社による消費者金融市場への参入もあり、また大手消費者金融会社自身も融資金利を引き下げてきています。例えば銀行系のモビットなどでは実質年利15-18%などのローンがあるようですし、大手消費者金融の武富士でも実質年利27.375%としながらも信用力にあわせて実質年利10%からの融資商品があります。こういう状況の中でまず思うのは、現在の日本の金利水準を考えると年利29.2%って相当高い金利水準だという点です。参考として、アメリカでのクレジットカードの金利の代表としてCitiBankのものをみてみると、the standard variable purchase APR (標準変動購買年率)で10.74%、the standard variable cash advance (標準変動貸与年率)で22.74%の金利(いずれも2006年3月31日現在)となっています。現時点でアメリカの方が金利水準が高いということも考慮すれば、低金利の日本における年率29.2%という数値が相当高い金利水準であることはいえそうです。

期待リターンが年率29.2%以上である事業家はまあ少ないでしょうし、これらの方が顧客層になることはまずありませんから、長期資金として消費者金融会社から融資を受けることは「計画的なご利用」とはいえません。ですので、「計画的なご利用」として考えうるのは、短期資金として来月ボーナスが入る予定なので今月何かを買いたいとか、もう少ししたら遺産が入るのでそれまでの資金をつなぎたいとか、短期的な資金供与のケースに限定されるのではないかと思われますが、これらの短期資金の中でも銀行系消費者金融、信販会社またはリース会社などとの競合がありますから、年率29.2%での融資を求める顧客層というのは必然的に比較的信用力の乏しい顧客層に限定されることになります。そういう意味では現在の消費者ローン市場というものはある意味で「無計画な利用者」の存在をビジネスモデルの中に取り込んでいるといえます。

2.高利市場を認めることによる「損失」

信用力の乏しい債務者に高利で貸し付ける消費者金融会社があり、リスクに合致した資金供与が受けられるというだけならば、上限金利規制という話には結びつかないわけですが、問題はそれだけにとどまりません。私の想像は、最後の貸し手として経済的に合理的でない貸し手が存在しており、これが債務者の法的整理手続きへの嫌悪感や親族などの「身内」意識とも相まって、システマティックに「借り換え市場」として機能しているのではないかというものです。

私の「返済原資=借り換え」説に立つと、最後の貸し手が経済的に合理的な人間である限り、借り手及び保証人の信用力に依存せざるを得ないわけですから、論理的に破綻してしまいます。ただ、日本社会での債務者の破産手続等に対する道徳的嫌悪感やら、家族や親しい知り合いが「追い込み」をされている時に抱く心情やらを考慮すると相当数の経済的に不合理な「最後の貸し手」が存在するのも事実です。貸し手が、ある一定の金額に至るまでは破産手続きをとらない確率が高い、ある一定の金額に至るまでは親族が肩代わりをしてくれる確率が高いというデータを蓄積しているとすれば、システマティックに借り換えの可能性を組み込んだビジネスプランを有するはずです。

この場合に上限金利を無限に拡大してしまうと、親族や知り合いに与える経済的損失が拡大するほか、夜逃げ、家族離散、一家心中といった弊害も発生するおそれがあります。

3.上限金利の設定の合理性

経済学の世界でいえば、上限金利を定めるのは価格統制と同じであり、効用の最大化につながらないということになるのでしょうけど、例えば上限金利を利息制限法のものではなく、出資法のそれで設定した場合に害される効用ってそもそも何なのでしょう。返済できないことが明確な金利水準を越えた金融市場の存在は、親族等による肩代わりの確率を狙ったババ抜きゲームを促進するだけであり、「効用」と呼ぶに値しないものではないでしょうか。一家離散とか自殺とかを防止するためのパターナリスティックな規制の存在を不合理ということは難しいような気がします。

上限金利規制の撤廃を主張される方は上限金利そのものの規制よりも取立て手法の規制で社会的害悪に対応すべきだと主張されるでしょう。また、資金需要のあるところに合法的な市場を閉ざすと闇金融の世界をより充実させるだけだという意見もあるところです。

ただ、法外な金利の世界を「闇金融」というとすれば、上限金利を撤廃することにより「闇金融」を合法化することによるメリットって何なのでしょうか。「闇金融」が現実的に返済しきれないことを前提になお金を貸しているのは、脅迫等の不法な手段による取立てによって儲かるからであり、金利が合法であるとしても実態として99%以上の確率で違法な業態になるような気がします。それよりは闇金融の取締りが難しいとしても民事でも刑事でも違法であるとして抑止効果を期待する方がマシでしょう。

上限金利の規制というのは、(1)民事上は返済義務の全部または一部を消滅させる、(2)刑事罰により違法な取立形態につながる貸付業態を抑止する、(3)債務者が借りるのを抑止するなどの効果があるところだと思います。取立規制のみでは実現しにくい効果を副次的に得られ、もはや返済が不可能となっている債務者を法的倒産へ誘導し、周囲への迷惑を防止するということであれば、合理的な規制といえるのではないでしょうか。

ただ、上限金利の定め方として、(1)名目金利で固定するよりも何らかの数値と連動させたり、政令に落として変更しやすくする、(2)利息制限法のように少額の融資について上限利率を引き上げるといった手法(例:100万円までは25%、それ以上は20%など)は検討されるべきでしょうし、規制上限金利が利息制限法の利率(15%)でいいのかという問題があるというのはその通りだと思います。

法律家は人間が合理的な判断をしないことを前提に規制を正当化したがり、経済学者は人間が合理的な行動をすることを仮定して議論したがるという傾向があるとすれば、私はやっぱり典型的な法律家なんですかね。政策論を論じるときの統計やら経済学の知識というものをもっと勉強したいような気もしますが、それを現実的なものにもしたいとも思うので、立ち位置が難しいところです。
by neon98 | 2006-04-21 04:20 | LEGAL(General)
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